『学力喪失 認知科学による回復への道筋』今井むつみ|本の紹介

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はじめに

タイトルにある「学力喪失」という言葉を聞くと、「最近の子どもの学力が下がっている」という話を想像するかもしれません。しかし本書が扱うのはそうした表面的な問題ではありません。認知科学の第一人者である今井むつみさんが、子どもたちが本来もっている「学ぶ力」をなぜ十分に発揮できないのか、その原因と回復への道筋を明らかにしているのが本書です。主な読者層は学校の先生を想定しているようですが、教育に関わるすべての方にとって示唆に富む内容になっています。私自身、家庭教師として日々子どもたちと接する中で、この本が投げかける問いはとても実感を伴うものでした。

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第1部 算数ができない、読解ができないという現状から

最初に取り上げられるのは、小中学生が基本的な算数の文章題を解けないという現実です。たとえばこんな問題があります。

“こどもが14人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。”
(今井むつみ「学力喪失 認知科学による回復への道筋」, 岩波書店, 2024, 第1章「小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか」より)

正解は「6人」です。全体14人から、ことねさんの前にいる7人と、ことねさん自身1人を引けば6人になります。しかし実際には、「14−7=7」のようにことねさん本人を引き忘れたり、「14×7=98」のように意味を取り違える、といった誤答が少なくないそうです。

“なおきさんのテープの長さは、えりさんのテープの長さの4倍で、48センチです。えりさんのテープの長さは何センチですか。”
(第1章「小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか」より)

正解は「12センチ」ですが、「48−4=44」や「48×4=192」と答えてしまう子が多くいます。こうした「文章題が解けない」という現象は30年以上前から繰り返し指摘されてきました。にもかかわらず解決していないのは、子どもたちの力の問題ではなく、原因の本質を捉えずに場当たり的な対策を続けてきた大人側の問題ではないか。今井さんはそのように問いかけます。

第2部 学力困難の原因を解明する

第2部では、子どもが「わからない」と感じる根本的な理由を認知科学の観点から説明しています。ここで出てくる重要なキーワードを、簡単に整理しておきます。

スキーマ
これまでの経験を通して頭の中に形成された「知識の枠組み」や「理解のテンプレート」です。正しいスキーマを持っていれば、問題文の意味やパターンをスムーズに理解できます。しかし誤ったスキーマを持つと、情報をその誤りに合わせて無理やりねじ曲げて理解してしまいます。
スキーマ例①:「問題文に出てくる数を、文章に出てくる順番にすべてそのまま使う」
スキーマ例②:「かけ算は数を大きくし、割り算は小さくする」

アブダクション推論
確実ではないけれど、「もっともらしい仮説」を立てる推論機能のことです。問題文を読んで「おそらくこういうことだろう」と考え、式を立てて答えを導く過程がこれにあたります。

作業記憶
問題文や数値、途中の計算などの記憶を一時的に保持・操作する認知機能のことです。

実行機能
問題を解くために必要な情報にのみ注意を向け、不必要な情報への注意を抑制する認知機能のことです。

メタ認知能力
自分の考え方を意識的にモニタリングし、「この考え方で正しいかな?」「別の方法はあるかな?」と振り返る力です。


これらの要素は互いに密接に関わりながら働いています。問題を解くという行為は、次の3段階で進みます。
①スキーマを出発点として、アブダクション推論で仮説を立てる
②アブダクション推論の過程を、作業記憶と実行機能が無意識的に支える
③メタ認知能力が意識的にアブダクション推論をチェックし、誤りがあれば修正する

そして子どもが問題を解けないのは、アブダクション推論=思考そのものができないからではありません。
①そもそもスキーマが誤っている
②作業記憶と実行機能に過度な負荷がかかっているが、負荷を軽減する工夫を知らない
③メタ認知による振り返りや修正ができていない
というように、思考を制御する様々な力がうまく働かないせいで躓いてしまうのです。

第3部 学ぶ力と意欲の回復への道筋

最後の第3部では、学びの回復法として「プレイフル・ラーニング」という考え方が紹介されています。その名のとおり、遊びを通じて学ぶというアプローチです。小学校で実践された例として
・時間どりじゃんけん
・時計カルタ
・分数のたつじんトランプ
などが紹介されており、楽しみながらスキーマを正しく構築する試みとして位置づけられています。

感想

紹介されている子どもたちの誤答の例は、私自身の指導経験と重なる部分が多く、非常に納得感がありました。「なにがわかっていないのか」を感覚的にしか捉えられていなかったのが、認知科学の枠組みで整理できたのは大きな発見でした。

読み終えて感じたのは、これは子どもの学びだけの話ではないということです。誤ったスキーマは、放っておくと大人になってもそのまま残ります。勉強を続け、メタ認知を働かせ続けなければ、誤解や偏見を無意識のうちに他者へ向けてしまうかもしれません。自分の考え方そのものを省みるきっかけにもなりました。

本書で何度も登場する「たつじんテスト」も興味深く感じました。「たつじんテスト」は今井さんが開発した、子どもの学習のつまずきの根本的な原因を明らかにするためのテストです。単に正誤を測るのではなく、子どもがどのように考え、どこで誤解しているのかを丁寧に見取る点が特徴です。現状「たつじんテスト」は学校関係者しか使えないようですが、不登校支援や個別指導の現場にも届く形で広まり、子ども一人ひとりの理解のしかたに寄り添う教育につながっていってほしいと思いました。

気になった点としては、話の流れがやや複雑に感じられるところがありました。今井さんの集大成ということで、多くのテーマが盛り込まれていて非常に刺激的なのですが、その分話題が広く展開していく印象があり、読んでいて道筋をつかみにくい場面もあったように思いました。各章末の「まとめ」はありがたい工夫ですが、本文との言い回しが微妙に異なっていたり、新しい情報が加えられていたりして、読んでいて戸惑う部分もありました。

また、第3部で紹介されているプレイフル・ラーニングの取り組みは非常に興味深いものでしたが、遊びながら学べる教材をもっとたくさん紹介して欲しいというのが正直なところでした。子どもが飽きずに取り組めるようにするには複数のゲームを設計する必要があり、現場の先生が独自に開発するのは現実的に難しいように感じてしまいました。

さいごに

私自身もプレイフル・ラーニングができる教材をつくり、不登校支援の現場にも取り入れてみるつもりです。もし良い教材ができたら、ゆくゆくは多くの方に使っていただける形にできればと思います。また、学びに役立つ市販のボードゲームを紹介する記事も今後書いてみたいです。

専門用語が多く密度の濃い一冊ではありますが、この記事で基本概念を整理できればぐっと理解しやすくなるはずです。「子どもはなにがわかっていないのか」を認知科学の枠組みで理解してみたいという方は、ぜひ手に取ってはいかがでしょうか。

参考文献:今井むつみ「学力喪失 認知科学による回復への道筋」, 岩波書店, 2024

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